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浅草寺の北に広がる浅草花街は、伝統と格式を誇る東京屈指の花柳界のひとつです。
古来より浅草観音様は諸人の参詣を集め、掛け茶屋が出て賑っていました。武江年表(斉藤 月岑 編 平凡社東洋文庫)によると明暦年間(1655~1657)「金竜山の門前に初めて茶飯 豆腐汁 煮染 大豆等をととのえて奈良茶となづけて出だせし」とあり、これが江戸の料飲店の始まりといいます。

宝暦7年(1757)には「江戸真先稲荷流行出でて田楽茶屋数軒出来て繁盛す」と記され、その後、浅草寺門前広小路に移り、菜飯田楽を看板に料理店化してゆきます。この田楽茶屋の酒客のお相手に生まれたのが、田楽芸者の愛称でも知られた広小路芸者です。
北には、遊女三千人で不夜城を誇った幕府公許の新吉原の遊郭があり、大門外の田町山谷堀あたりの編笠茶屋や船宿を出先に、ここに山谷堀の芸者、俗にいう堀の芸者が生れ盛況を迎えます。
また天保の改革で、江戸市中に散在していた3座の歌舞伎、2座の人形芝居の小屋を猿若町に移し、芝居町が形成され、芝居茶屋には猿若町芸者が誕生します。芝居櫓の下にいるので櫓下芸者と呼ばれたといいます。

これら三派の芸妓衆が、この三名所を背景に、江戸府内随一の大歓楽境を作ってゆきます。
明治維新後、一時衰微しますが、明治18年(1885)浅草寺寺内の改造を機に広小路、猿若町、堀の芸妓衆の一部が浅草公園周辺に集まって、公園内の料理屋を出先に、現在の浅草芸妓のもととなる公園芸妓が生まれ、再びかつての繁盛を取り戻します。 明治29年(1896)には料理店ごとあった見番をまとめた公園見番が作られ、芸妓の管理、花街の運営にあたります。

公園を根城にしていた花街も、芸妓の変遷、都市の発展に伴い現在の場所に移ります。
大正末期には料理店49軒、待合茶屋250軒、芸妓1,060名を擁した大所帯も、関東大震災、続く戦禍のために、多数の痛ましい犠牲者を出して、浅草花街は壊滅状態となります。

戦後は関係者一同が花街の復興、再起に力を注ぎ、昭和25年(1950)には、浅草花柳界の復活発展を示す、第一回浅茅会をスミダ劇場で開催して好評を博します。その後、会場が明治座、浅草公会堂と変わりますが、浅茅会公演は浅草芸妓の鍛えた伎芸をご披露する場として知られ、随時開催されてきました。

平成7年(1995)には、東京浅草組合と浅草観光連盟の共催となり、台東区の後援をいただき、「浅草おどり」として街をあげた催事として、浅草花街の地域復興、芸妓の芸能文化向上に寄与しています。